@article{oai:wayo.repo.nii.ac.jp:02000025, author = {小沢,哲史 and OZAWA,Tetsushi}, journal = {和洋女子大学紀要, The journal of Wayo Women's University}, month = {Mar}, note = {PDF, トラウマ体験とは個人の処理能力の限界を上回った体験であり、生体のいくつかの防衛メカニズムが起動したものである。トラウマ後の生体反応は心身をばらばらにするが、反応の一つひとつは必ずしも病ではなく、生物として適応的な意味を持っていると考えられる。しかし、その体験はエピソード記憶として保持されたものではなく、そもそも言語野に情報が入力されず、言語化の前提を欠いている。このことは乳幼児期の早期トラウマの場合には、はるかに深刻なものとなり、名前のない体験として多くの機能が不全のまま成長する。しかし被害者自身も含めて、人々は言語というものは「たいてい何でも」表現できるものだと素朴に信じ、トラウマ体験にもそれを適用しようとする。これをトラウマの言語化についての素朴信念と呼ぶ。しかしこの素朴信念は多くの困難にぶつかる。他者に伝わるように情報を補完していく過程で「トラウマ体験」は真実から離れていく。被害者だけでなく、加害者、部外者、支援者においても自らの処理能力を凌駕する体験の重みから、沈黙や偽りへと向かう。さらに様々なメディアやエンターテイメントが「トラウマ」を扱っているが、悲劇と美談という似て非なるものにトラウマを置換してしまい、誤った見本となり、ますますトラウマの言語化を歪め、人々を沈黙と偽りのうちにとどめている。一部の者はトラウマ体験の言語化における素朴信念の崩壊を意識し、体験を「それ」「穴」などと形容する。私たちは被害者をはじめとしてどの立場の存在でもあり得、そしてどの立場の存在にもなり得る。さらに複数の立場を多重に兼ねていることもある。私たち全員が多重に当事者性を持つと考えられることから、誰もがトラウマの生物学的理解と言語化困難、そして素朴信念の崩壊への理解を深めていく価値があるだろう。}, pages = {225--237}, title = {トラウマ体験の言語化における素朴信念の崩壊}, volume = {65}, year = {2024}, yomi = {オザワ,テツシ} }